毎年3月は東日本大震災のことを考えるのですが、そのたびに普段は感じることがない生への意識が生まれます。
生きている感じ、生かされている感じ1


今年も3.11を迎えました。もう3年、まだ3年。みなさん、いろいろな想いがあるでしょう。


以前も少し話しましたが、1995年の阪神大震災のとき、私は浪人生としてセンター試験を終えた翌々日でした。

自宅は古い木造の長屋で、えらく揺れましたがなんとか無事でした。

テレビをつけると見慣れた神戸の街並みが無残にも変わり果て、燃え盛る炎が映し出されていました。



そのときいろんな震災のニュースを知るにつれ、初めて死を意識したのをはっきり覚えています。


「自分が生きている間に、あんな大きな地震はもう起こらないでくれ」と思っていたのですが、2011年3月11日を迎えます。



テレビに映し出された映像は、あの日の神戸を思い出されるものでした。崩れた家屋、燃えさかる炎、さらに津波に飲み込まれていく街。


油断していたわけでもなく、地震を甘くみていたわけでもないと思うんです。

でも阪神大震災を経験している自分の意識以上のものが、自分が生きている間に起こってしまいました。



ビートたけしさんが震災後に雑誌の対談でこんなお話されていました。

「何万人がなくなったんじゃなくて、1人亡くなった事件が何万件あったと考えないといけない」

お亡くなりになった方を千とか、万とか、数字の単位でとらえると見えなくなってしまうものが多いです。

でもお亡くなりになった1人1人に家族があり、友人があり、故郷があり、そう考えるとどれだけ大変なことか見えてくるものもあります。



生を意識するといえば、先日通勤途中に車にはねられそうになりました。

その日は寒く、私が住んでいる街では雪が降り、道路が凍結しているところもありました。


生きている感じ、生かされている感じ2


通勤途中に橋を渡らないといけないのですが、橋の上は特に凍るんですよね。

自転車で走っていると、対向車線を走っていた軽トラがスリップして、回転しながら私の方にむかってきました。


「逃げなきゃ」っていう意識もなく、スローモーションで困っている運転手の顔をじっと見ていました。

幸い私の5mぐらい後ろをすり抜けて、車は橋の欄干に当たって止まりました。あと3秒遅かったら思いっきり轢かれているところです。


そのときびっくりしたという感情よりも、「ラッキーやわ」という、なぜかプラスの感情が最初に浮かびました。

まだ生きろってことなのだと、何かわからないものからのメッセージを感じました。



生きているって感じ、生かされている感じ。普段はあまり考えませんが、私は生きてるんだなと。


これから自分が必要とされていることに、生あるかぎり向き合っていきます。
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